旧・美山町の概要

当町域は、木梨軽皇子、慶能法師、甲賀三郎が隠棲したとの伝えがある。若狭と京都の中間地として古くから栄え、平安期には禁裏御料地であったが、天文年間には宇津氏が勢力を広げ、その後は川勝氏の所領となった。近世には大部分が園部藩領となり、多くの古寺古刹を持ち、農林業が盛んに行われた。江戸後期には平屋の箪笥製造業などの新しい産業もおこったが、近年過疎化で、人口も減少している。美しい自然に囲まれた京都の奥座敷として、将来の発展が期待されている。
明治22年、町村制施行により、南・北・中・河内谷・下・知見・江和・田歌・芦生・白石・佐々里の11ヵ村が合併して知井村に、深見・長尾・又林・下平屋・上平屋・安掛・野添・内久保・荒倉の9ヵ村が平屋村に、宮脇・板橋・下吉田・原・静原・和泉・上司・長谷・島の9ヵ村が宮島村に、鶴ケ岡・高野・豊郷・盛郷・福居の5ヵ村が鶴ケ岡村に、萱野・大野・三埜・肱谷・小淵・向山・樫原・音海の8ヵ村が大野村になった。昭和30年、5ヵ村が合併して美山町となり、平成18年に南丹市の一部になる。

〔原始・古代〕
下平屋から、縄文時代と推定される石棒・凹み石が出土、内久保の光瑞寺境内からは凹み石が、また上平屋の教誓寺境内からは弥生時代と磨製石斧(大型蛤刃)が出土している。
律令制下では、丹波国桑田郡12郷のうち、弓削郷の郷域に含まれ、のちに郷域内から野々村荘や知井村が発生した。鶴ケ岡は棚野村に属したとされ、平安期に入って、それらは弓削郷の後身の弓削荘の一部として禁裏御料地となった。
古代の寺社としては静原の観楽寺が延暦年間の創建とされ、知美寺(のち本像寺と改称)は貞観16年(874)の創建と伝えられる古刹で、ともに真言宗寺院。
禁裏御料地であった当地は、弓削荘域の一部として知井・棚野地区も飛地のような状態で含まれていた。同じ弓削荘の一部から出たと推定される野々村荘は、一時源頼朝が管理し、女房某の所領となった。南北朝期には一条殿女房が領主で、建武年間には建仁寺が地頭職であった。当荘は由良川流域に開けて荘園であったらしい。戦国期に入り在地の土豪川勝氏の領有地となるが、当地に点在する城跡から、有力な土豪の台頭の形跡を看取することができる。
天文年間になると、右京大夫宇津頼重が新たに広大な領地を所有し、禁裏御料への貢租を絶つようになった。当時松永久秀の力をもってしても、宇津氏を制止することができなかったといわれる。その後、明智光秀が宇津氏を制して善政をしき、その功により光秀は織田信長の感状を得ている。一方、川勝氏は光秀とよく提携し、さらに豊臣秀吉からの信頼を受け所領を安堵された。当町全域が川勝氏の分国内であった。
北の知井八幡神社は、延久3年(1071)南の上宮山に勧請されたが、永禄10年(1567)の洪水で長床・舞台・巫子屋・鳥居などがことごとく流失したので、十苗の宿老が北の久保屋敷に遷宮したとされる。宝物庫に蔵する鰐口は文明10年(1478)の刻銘を有し、北桑田郡中の最古の鰐口となっている。
宮脇の道祖神社は、允恭天皇の長子木梨軽皇子が当地に潜居された故事をもつことから軽野神社と称したとされる。応永15年(1408)の火災により灰燼に帰したが、程なく再建された。その氏子圏は旧宮島・大野・平屋村にもわたり、北桑田郡北部における最大の規模を有した。
鶴ケ岡川合の諏訪神社は、応安2年(1369)信濃国諏訪明神を勧請したものと伝え、社蔵の正徳2年(1712)棟札には「建立永和二年」の文字が見られる。15年ごとの大祭には、福居・盛郷の両区より刀踊が奉納され、豊里からは振踊、鶴ケ岡・高野からは神楽がそれぞれ奉納される。振踊は、道行の歌・お伊勢踊・長者踊・小鷹踊・商踊・武者踊からなるが、それらは室町期前後に民間に流行した風流踊の遺風を伝えたもの。
内久保の光瑞寺(真宗大谷派)はもと真言宗であったが、蓮如上人が越前吉崎から若狭小浜を経て内久保に入り、草庵に居したことにより庵主原田重兵衛兼寿(了照)が帰依し庵を一寺としたとされる。寺には蓮如の六字名号を有するほか、天正年間顕如上人から大坂石山城によって織田信長との対戦の時、光瑞寺から軍資を送って後援をした消息を物語る文書が伝わっている。なお平屋には、教誓寺・西乗寺・正覚寺・西方寺・覚了寺など計6か寺の真宗大谷派寺院があり、他宗派を圧倒する教線拡張をみせていて、真宗勢力の若狭からの伝播のあったことが知られる。
知見の正法寺はもと本像寺といい、真言宗から日蓮宗に転宗した寺院で、本山妙顕寺(京都)貫主歴代の隠棲地となった名刹で、暦応3年(1340)北朝年号の銘文が背後に刻まれた□黒の大黒天木像がある。
静原の観楽寺は真言宗泉湧寺末で、桓武天皇の勅願寺とされ、貞治4年(1365)・応永2年(1395)・延宝7年(1679)の3度火災にあったといわれ、その後明治19年宮島村役場の東北約300mに台地に移建された。仁王門は草葺単層六脚門で、2体の木像仁王像は鎌倉期のものと伝えられている。
江戸期の村々としては、棚田・深見・長尾・又林・下平屋・上平屋・安掛・野添・上久保・大内・荒倉・南・北・知井中・知井下・知見中・知見・江和・田歌・芦生アシウ・白石・佐々里・宮脇・板橋・下吉田・原・市場・野々中・和泉・上司・沢田・島・河合・殿・棚・船津・栃原・砂木・今宮・名島・洞・神谷・松尾・上吉田・田土・林・大及・熊壁・山森・庄田・脇・萱野・野々村大野・川谷・肱谷・向山・樫原・音海・岩江戸・小笹尾の各村からなり、総村高8,340石余(天保郷帳)。そのうち大部分は園部藩領に属していたが、知井中・知井下・北・南・河内谷カワチダニ・江和・田歌・河合・松尾・神谷・名島・洞・田土・庄田・岩江戸・大野・小笹尾・小淵・萱野・肱谷・向山は篠山藩領、脇・山森は旗本武田兵庫領に属した。
〔村の行政〕
知井の南・北・中・下・河内谷・江和・田歌の7か村では、村役として大庄屋1人を置き、その下に下役番人を置き、各村には、庄屋・年寄・百姓各1人の三役と五人組頭を置いたが、宮島村・平屋村では各村庄屋1人・年寄1~3人となっていた。役人の任期も村により異なってはいるが、1~2年がほとんどで、旧門閥ないし富裕農民の中で交互に回り持ちというのが多かった。またそれらは宮座と深い関係を持ち、地主層と小前百姓との分化をきたした。市場村では若狭方面との物資交流が盛んで、100余戸の家が街村状に並び、商品取引が行われていた。また大及村は木地師が多く居住し、椀や杓子などの商品を若狭方面に出荷、上平屋村では江戸後期に京都から箪笥の製作技術を習得して生産が始まり、現在まで続いている。
当町は農業を主としたが、一方、林業も重視され、マツ・スギ・ヒノキ・モミ・ケヤキ・トチ・カツラ・ブナ・カシ・クヌギなど、天然林の切り出しを行った。夏土用の入前後から9月中旬頃までに伐木が終わり、順次平落としをして、シュラ出し(山地の傾斜を利用して、木材の重力によって桟路面を滑らせる)を行い、堰出し、流し筏または管流しをして、京都郊外の嵯峨・梅津・桂の3か所に運送した。材木の売買は、上記3か所に仲買商を兼ねた問屋が置かれ、そこで行った。材木商を営むためには相当な加入金の徴収があり、株仲間が営業を独占していた。また江戸期には盛んに植林も行われるようになった。
知井・鶴ケ岡の炭焼きも盛んに行われた。炭焼窯は、前に高く後ろに低い「おたふく窯」と呼ばれる窯で、歩止まりも悪く7分くらいであったという。また炭の焼け具合も、煙の色やにおいで判断し、経験にものをいわせた方法がとられていた。
鶴ケ岡では、他地方に先がけ養蚕製糸業が農家の副業として広がった。水田や畑地に利用できない土地で家に近い所に桑樹が植えられたが、古木が多く摘葉にも時間と労力を要した。
慶応4年閏4月28日久美浜県の管下となり、明治4年11月京都府に属し、同5年桑田郡のうち第21~24区に入り、同12年3月4日北桑田郡に所属した。明治8年棚田村と沢田村が合併して長谷村に、同9年野々中村と市場村が合併して盛郷村に、同年山森・庄田・脇・熊壁の4か村が合併して福居村に、同年川谷・岩江戸・小笹尾の3か村が合併して三埜村に、同年河合・棚・殿・船津の4か村が合併して鶴ケ岡村に、同年今宮・栃原・砂木の3か村が合併して高野村に、同年洞・名島・神谷・松尾の4か村が合併して豊郷村に、同12年知井中村と知見中村が合併して中村になる。明治22年市制町村制施行により、深見・長尾・又林・下平屋・上平屋・安掛・野添・内久保・荒倉の9か村が合併して平屋村に、南・北・中・河内谷・下・知見・江和・田歌・芹生・白石・佐々里の11か村が合併して知井村に、宮脇・板橋・下吉田・原・静原・和泉・上司・長谷・島の9か村が合併して宮島村に、鶴ケ岡・高野・豊郷・盛郷・福居の5か村が合併して鶴ケ岡村に、萱野・大野・三埜・肱谷・小淵・向山・樫原・音海の8か村が合併して大野村となる。昭和30年4月、5か村が合併して美山町が成立した。
国重文に、下平屋の西乗寺に木造阿弥陀如来及両脇侍坐像、樫原に日本の農家の石田家住宅(慶安5年7月吉日と書かれた祈祷札がある)がある。ほかに同種の文化財として下平屋に小林家住宅(文化3年)がある。

旧・美山町の主な歴史記録
関連情報

FAQs
美山かやぶきの読み方は? ›
かやぶきの里・北村(かやぶきのさと きたむら)は、京都府南丹市美山町北にある山村集落。 今では珍しくなった茅葺き屋根の家屋がここには数多く残っている。
南丹市美山町の歴史は? ›京都府南丹市美山町は京都府の中央に位置する山間の地域で、保存地区は由 良川上流の右岸、小浜街道沿いに開けた集落である。 古代は「和名抄」に記す弓削郷に属し、鎌倉時代以降は知井庄の内で、慶長 7年(1602)に幕府領、寛文 4 年(1664)からは篠山藩領となり、山林は享和 2 年(1802)より禁裏御料となる。
美山町の特徴は? ›美山町はかやぶきの里に代表される日本の農山村の原風景と豊かな自然が息づく町として知られ、美山町東部に位置する三国岳(959m)山麓の由良川源流域には京都大学芦生研究林の広大な自然林が広がっています。 美山町の面積の96%が森林に覆われています。
美山町ってどこですか? ›京都市の北部、南丹市に位置する美山は、その名の通り美しい山々に囲まれた、静かな里。 かやぶき屋根の民家が建ち並ぶ「かやぶきの里」などフォトジェニックな観光スポットや、豊かな食材を利用したグルメ・おかいものスポットが点在し、四季折々の見どころがあります。
美山のパワースポットは? ›パワースポット巡りは「稲森神社」と「知井八幡神社」へ 美山はパワースポット巡りも楽しい場所。 今回ご紹介する「稲森神社」は隠れたパワースポットとして、「知井八幡神社」は旅の神様と恋の神様が祀られている美山随一のパワースポットとして知られています。
美山 なんて読む? ›美山(読み)みやま
美山の由来は? ›ミヤマ 【美山】4 日本姓氏語源辞典
①地形。 美しい山から。 福岡県小郡市干潟では草分けと伝える。 鹿児島県の奄美群島の一字姓に「山」を追加した例あり。
美山町の人口は約4,000人です。
美山は何県? ›京都府南丹市美山町は、京都駅の市街地エリアから北のほうへ車で約1.5時間の位置にあります。 森林に囲まれた自然豊かな町で、茅葺き屋根の民家が大切に保護され、現在まで残されて来た隠れた観光名所です。
京都美山何区? ›...
美山町 (京都府)
みやまちょう 美山町 | |
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都道府県 | 京都府 |
郡 | 北桑田郡 |
市町村コード | 26382-6 |
面積 | 340.47km2 |
かやぶきの里の標高は? ›
標高800メートル。 山名の由来は山頂から、丹波・丹後・山城・近江・若狭・越前・加賀・能登の8つの国が見渡せたことから。 日本海と山々が一望できる頂上の眺めは最高です。
かやぶきの里の歴史は? ›かやぶきの里の歴史についてご紹介します。 美山北は、もともとは江戸末期から明治初期に形成された集落です。 伝統的なかやぶき屋根の建築物が集まる北地区は、1993年国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。 その後、里内のほぼ全戸の出資により、里全体の運営を担う「有限会社 かやぶきの里」が設立されました。
かやぶきの里の撮影スポットは? ›- 1番人気のフォトジェニック・スポット「丸い赤ポスト」
- かやぶき家屋へ入れる!「 美山民俗資料館」
- 北稲荷神社の樹齢400年以上のトチの巨木
- 観光客向け施設もあり1日中のんびり楽しめる
- 四季折々の美しい景色と豊富なイベント
「見誤る」は、他のものを見て、そのものと間違えることをいう。 また、「彼の性格を見誤る」のように、誤った見方をすることもいう。 「見違える」は、対象があまりにも似ていたり、思いのほか変わっていたりする場合に使う。
かやぶきの里 いつから? ›京都府南丹市美山町の北集落「かやぶきの里」は、京都市と小浜市の中間に位置します。 集落を東西に渡り、鯖街道と呼ばれる街道が通ります。 ここには、約220年前(江戸時代)〜 150年前(明治時代)に建てられた茅葺き屋根の家屋が多く残され、今も、50戸ある家屋のうち39棟が茅葺き屋根です。
美山町の課題は? ›・単身住宅の不足や労働生産人口減少といった課題のための移住環境等は不十分である。 ・まちづくりへの無関心層、諦めている層が多い。 美山町全体を見渡した中で喫緊の課題は、急速に減少する労働生産人口である。
南丹市の人口推移は? ›南丹市の総人口は、平成30~37年にかけて2,381人減少すると見込まれています。 また、65歳以上の人口は408人、15~64歳では1,694人、0~14歳では326人減少する と見込まれており、ますます進展する少子高齢化が懸念されています。 世帯数の推移をみると、平成23~27年にかけて増加しています。
美山町の高齢化率は? ›本調査において特に対象とする、美山町の人口の推移は下図の通り。 一貫して人口が減少傾向にあるほか、高齢化率は 47.56%(令和 2 年(2020 年)3 月時点) であり、市内全体の高齢化率と比較して著しく高い。
美山の最寄り駅は? ›京阪樟葉駅と阪急西山天王山駅の2つの駅から美山町自然文化村へ行けて便利です。
南丹市の出生数は? ›人口総数 | 31,074 人 696位 (815市区中) |
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転出率(人口1000人当たり) | 39.07 人 259位 (815市区中) |
出生数 | 165 人 683位 (815市区中) |
出生率(人口1000人当たり) | 5.31 人 589位 (815市区中) |
死亡数 | 522 人 193位 (815市区中) |
南丹市の高齢化率は? ›
面積 | 616.40k㎡ |
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人口増減率(2015~2020年) | -4.57% (※) -0.75% |
高齢化率(65歳以上・2020年) | 35.20% (※) 28.00% |
人口密度(2020年) | 51.30人/k㎡ (※) 338.20人/k㎡ |
(※)比較地域:全国平均(→比較する地域を変更できます) |
かやぶきの里の歴史についてご紹介します。 美山北は、もともとは江戸末期から明治初期に形成された集落です。 伝統的なかやぶき屋根の建築物が集まる北地区は、1993年国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。 その後、里内のほぼ全戸の出資により、里全体の運営を担う「有限会社 かやぶきの里」が設立されました。
南丹市八木町の歴史は? ›八木町の歴史は古く、古代から地方豪族の古墳が多数作られ、645年頃、在桑田郡行程上一日下半日の地(現在の北屋賀か)に丹波国国府が置かれたと言われている。 中世には、吉富荘と船井荘の荘園が存在し、1180年頃、神護寺を復興した文覚上人が吉富荘室橋に文覚池を造った。
美山の保存地区は? ›美山町は京都府中央部に位置し、日本海へ注ぐ由良川の上流部にある。 保存地区は茅葺民家の集中する部分を中心に、由良川北岸の集落及び水田を範囲とする。
かやぶきの里の標高は? ›標高800メートル。 山名の由来は山頂から、丹波・丹後・山城・近江・若狭・越前・加賀・能登の8つの国が見渡せたことから。 日本海と山々が一望できる頂上の眺めは最高です。
かやぶきの里の説明は? ›京都府南丹市美山町の北集落「かやぶきの里」は、京都市と小浜市の中間に位置します。 集落を東西に渡り、鯖街道と呼ばれる街道が通ります。 ここには、約220年前(江戸時代)〜 150年前(明治時代)に建てられた茅葺き屋根の家屋が多く残され、今も、50戸ある家屋のうち39棟が茅葺き屋根です。
京都府南丹市の読み方は? ›京都府南丹市(キョウトフナンタンシ)の住所一覧です。
千妻の読み方は? ›園部町千妻(そのべちょうせんづま)は京都府南丹市の地名です。
南丹部の読み方は? ›南丹(なんたん)とは、京都府の丹波地方南部を指す呼称で、行政区分として京都府中央部の亀岡市、南丹市、船井郡京丹波町の3市町の地域(旧南桑田郡・旧北桑田郡・旧船井郡)を指す。 北桑田郡であった京都市右京区京北も含むときもある。